井村美術館の館長コラム
ヨーロッパ各地を巡っていくと、その土地の隆盛を極めた時期が、美術品を通して感じられます。ロンドンやパリでは、17世紀の日本の焼物を見ることができます。それ以前、15世紀からたくさんの焼物を中国(明朝)から買っているのですが、17世紀からは日本の焼物が台頭します。
明朝の末期、中国は内乱続きで良質の焼物をつくるどころではなくなっていました。戦乱のさなか、明の第一の陶磁窯・景徳鍼(けいとくちん)をはじめ有名な窯場がすべて荒らされ焼き払われます。というのも、敵側の貿易の要となる資金源(窯場)を潰すことは、大きなダメージを与えることになるからです。
戦乱で明の窯場がなくなり、それまで中国の焼物を、シルクロード(セラミックロード)を通って、ヨーロッパに運んでいたオランダの東インド会社が困るわけです。
そこで彼らが目をつけたのが日本。東インド会社は、明の窯場の技術をそっくりそのまま有田(佐賀県)に伝授して、焼物をつくるよう指導します。
それまでの日本の焼物は、白磁と青磁と染め付けのみでした。豊臣秀吉が朝鮮へ侵攻し、持ち帰ったものです。秀吉はなぜ朝鮮へ攻め入ったのかといえば、その理由のひとつに焼物の技術を手に入れたいという思惑がありました。
焼物は当時、途方もなく高価なモノ、最高の産業でした。それまで朝鮮には白磁と青磁、染め付けしかなかった。ゆえに日本でも、初期伊万里といわれる物には、色絵がなかった。そこへ東インド会社が中国の顔料や色絵の技術を有田へ持ってくる。そのとき有田の技術者の中に、酒井田柿右衛門がいたのです。そこからほぼ10年の歳月を経て、1644年、柿右衛門が赤絵を創始します。
長崎の出島からヨーロッパへ
柿右衛門に魅了された王族貴族たち
17世紀から18世紀にかけてヨーロッパで流行した中国趣味。これは中国の焼物が主流です。だから焼物のことを”チャイナ、といいます。この時代は、日本で作ったものもシノワズリーとして扱われています。
当時、オランダから日本へ往復するには一年がかりでした。生還率が50%の時代、命懸けです。途中海賊も出る海域なので、大砲を積んだ軍艦が護送しながら大船団で日本へ来ます。東インド会社というのは、世界初の王立会社で、王様が保護したので、壮大な航海ができたのです。
シノワズリーからジャポニズムへ
アムステルダムへ帰還次第、日本の名品はオークションにかけられます。するとヨーロッパ中の王族、貴族が集まります。マルコポーロの時代から、東洋の文化といえば先進的な凄い宝物だと、ヨーロッパでは認識されていましたから、それを掌中におさめるということは、王様にとってとてつもないステイタスシンボルなわけです。
ヨーロッパの宮殿に行くと、「磁器の間」「鏡の間」というのがあります。それは当時の最新技術で作られた部屋であることを意味します。一番凄かったのは、ドイツのアウグスト選帝候。彼は日本工芸品のコレクターでした。いまだにドレスデンには、日本の名品が揃っています。(井村談)
井村 欣裕
PROFILE
大学時代より百数十回ヨーロッパに足を運び、数万点にものぼる美術品を買付け、美術界の表裏を現場で学んできた。美術品を見極めるだけではなく、その名品がたどってきた歴史背景をも汲み取る。現在でも週に約2万点の美術品を鑑定する。
井村美術館
江戸時代、ヨーロッパに散逸した古伊万里・柿右衛門・薩摩焼などの名品を収集し研究を重ね、日本に里帰りさせる道を拓く。近代今右衛門、柿右衛門研究の第一人者であり、さらにガレ、ドーム、オールドバカラ、オールドマイセン、幕末明治期の伊万里焼の逸品を扱う。「作家がもっとも情熱をかたむけた時の作品しか扱っていない。なかでも作家の心が在るものだけを置いています。いいものをわかってもらおうと思ったら、その作家の最も良い作品を観ていただくのが一番いい」という審美眼のもと蒐集品を公開。
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