井村美術館の館長コラム
元禄年間、肥前有田の磁器はヨーロッパのオークションで熱狂的な喝采を博します。なかでも擢(ぬき)んでるのが、ポーランド国王にしてザクセン選帝侯でもあったアウグスト強王。いまだに日本工芸品のコレクターとしては彼が世界一で、その情熱が高じて、マイセン窯を起ち上げたのです。
有田には3つの柱があって、輸出用は柿右衛門、朝廷・幕府など国内の献上用は鍋島、一般仕様が伊万里と決まっています。
ちなみに、鍋島が献上用になった経緯は、関ケ原の戦いで鍋島満が負けたことに起因します。朝廷、徳川幕府、全国の有力大名筋へ、鍋島糖は焼物を贈ります。賄賂として磁器をおくることによって、自分達はこれほど優れた製品を作ることができる、という技術力を見せつけるわけです。
それゆえ、現在でも、皇室の方が会見される背後には鍋島が飾られることもあります。そして、政府が外交に行く際、たとえば総理が各国の大統領や首相などと会談される時、磁器のお土産には柿右衛門が贈られます。300年前の法則が、いまも踏襲されているのです。
最大級の花瓶と欧州屈指の騎馬兵団を交換
現在、古伊万里は1つ200~300万円、それが当時はおそらく1億円を下らなかったでしょう。なぜならヨーロッパでは焼けない磁器を、一年がかりの航海によって命懸けで運んで来るわけですから、相当な値打ちがあるからです。
ヨーロッパの貴族たちがどれほど日本の焼物に夢中になっていたかを知る逸話があります。その頃、一番大きな有田の壺は75cm。そこへ東インド会社の要望で世界一大きな壺を作れというミッションが下されます。それを有田で当時一対だけ作っている。1m30cmを超えるほどの大きさで、ちょっと歪(ひず)んでいるけれど、法外な値段が付きました。それをアウグスト強王は手に入れることができなかったのです。
オークションで勝つことは、戦争で勝つことに等しい。意地の見せ合いで、最大級の有田の珍品が、思わぬところまで値が競り上がり、アウグスト強王は思わずひるんで負けてしまった。それが悔しくてどうしても欲しくなり、競りに勝ったプロイセン国王に密使を送って圧力をかけてゆく。
プロイセン国王は譲渡することを承諾しますが、「ただしあなたの一番大切な物と交換しましょう」と条件を付けます。あろうことかアウグスト強王は、ヨーロッパー強い自分を守護する龍騎馬兵団と、有田の大壺とを交換するのです。後年、手放した馬兵団に攻撃されるというおまけもつきます。美術品は観て楽しむだけではなく、外交、力を誇する象徴なのです。
柿右衛門への熱狂がマイセン磁器の嗃矢
このように焼物には確かな価値があり、ならば自国で作りたいとアウグスト王は考えました。そこで19歳の錬金術師・ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーを城に監禁し、「白い金」と呼ばれた東洋磁器の秘法を究明させます。そこから、艱難辛苦(かんなんしんく)の果て、ついにヨーロッパ初の白磁製造に成功、1710年にマイセンが誕生します。そこから、柿右衛門の需要は途絶えます。
酒井田柿右衛門は現在15代。初代から5代まで世界の注目を集めた後、歴史に埋もれた謎の空白期間を経て、十一代が台頭。そして、十二代、十三代が昔ながらの柿右衛門の伝統技法「濁手」を復活させました。(井村談)
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井村 欣裕
PROFILE
大学時代より百数十回ヨーロッパに足を運び、数万点にものぼる美術品を買付け、美術界の表裏を現場で学んできた。美術品を見極めるだけではなく、その名品がたどってきた歴史背景をも汲み取る。現在でも週に約2万点の美術品を鑑定する。
井村美術館
江戸時代、ヨーロッパに散逸した古伊万里・柿右衛門・薩摩焼などの名品を収集し研究を重ね、日本に里帰りさせる道を拓く。近代今右衛門、柿右衛門研究の第一人者であり、さらにガレ、ドーム、オールドバカラ、オールドマイセン、幕末明治期の伊万里焼の逸品を扱う。「作家がもっとも情熱をかたむけた時の作品しか扱っていない。なかでも作家の心が在るものだけを置いています。いいものをわかってもらおうと思ったら、その作家の最も良い作品を観ていただくのが一番いい」という審美眼のもと蒐集品を公開。
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