井村美術館の館長コラム
誰もがエミール・ガレを求めた80年代後半、バブル景気の渦中、ガレはすでに研究が進み絶大な人気がありました。しかし、バカラの芸術性に魅せられた私は、埋もれてしまったオールドバカラを表舞台に戻す事が西洋美術商としての使命と考え、バカラの収集を始めました。ところが当時、主だった販売ルートであった百貨店でオールドバカラを扱えなかったのです。1936年までバカラ社は作品にサイン(マーク)を入れるのではなく、シールを張っていたため、多くの作品にシールが残っておらず、信用第一の百貨店でサインがない作品を扱うことなど、考えられなかったのです。
オールドバカラ正規輸入元 第一人者への道のり
抑々(そもそも)百貨店の大きな売り上げの中で、美術品の売り上げは微々たるもの。その上百貨店では証明書がない作品を扱うことはありません。
そこで起ち上げたのがAJA鑑定協会です。その分ンバーは、フランスの国家試験を受けてオークションを開く権利を得たエキスパートと、バカラ美術館設立時に学芸員として尽力した専門家、最もオールドバカラに長けた者たちで構成されています。彼らと共同で厳正にアートジャッジメントをして、真作と認定したものにだけに鑑定書を発行します。
こうして98年に井村美術館の鑑定部門としてAJAは発足したのです。ジャポニズム時代のオールドバカラを日本で流通させる事は京都美商(井村美術館併設ギャラリー。AJAは京都美商に所属)にしか出来ないと、腹を括ったのです。
ルイ15世の目論見 バカラ村にガラス工場設立
高級テーブルウエアとして世界中に愛あれたバカラは、1764年、フランス・ロレーヌ地方のバカラ村にガラス工場を設立したことに始まります。
透明なガラスは15世紀後半からイタリアのヴェネチアで作られはじめ、その後、ボヘミア地方で純度の高い透明ガラスが生産されます。ちなみに、1671年にはイギリスのガラス工場で水晶のような透明感をもつクリスタルガラスが誕生します。
それに対して、フランスはガラスエ芸に関して出遅れていました。その時分、サロンで使われる高級テーブルグラスは、ほとんどボヘミア製の輸入品で、その対価はフランスの財政にひびきました。だからルイ15世は、自国でガラスを生産しようと目論見ます。それがバカラの誕生です。
ガラスの生産に必要なのは、水と鉱石。ボヘミア(現・チェコ)とロレーヌ地方のバカラ村は隣合せで、やはり同じような土壌から発展しています。それまで製塩を生業にしていた村ですが、製塩が廃絶したため、その燃料にしていた新炭が豊富にあったのです。戦争で疲弊していた国力を高めようと国王はガラス工場を興すことを奨め、ムルト川右岸に建つエ場のまわりに職人を住まわせます。
フランスが誇る食外交の卓上で輝くバカラの色グラス
本来、ガラス食器というのは透明なのが基本。透明グラスのほうがワインの色を引き立てるのですが、バカラは美しい色彩がほどこされています。それは国王の意向によるものです。
食外交は大事で、国の命運を掌(つかさど)ります。フランスは意外と戦争に負けている。にもかかわらず、いい条件で戦争を終えています。それは食外交が上手だからなんです。
まず、美味しいものを食べさせ、お酒を飲ませる。それもできるだけ少人数でのセッティングで心和ませる。そしていよいよ、デザートのときに一番難しい話をする。血糖値が高い時に話をすればうまくいく、これは意図されたものです。
豪奢な部屋で、流行モノの調度品に囲まれ、テーブルに宝石をちりばめて、人を陶酔させる。その宝石の替わりに、美しい発色の色グラスを置いたのです。フランス外交のために、バカラのクリスタルガラスは発達したのです。(井村談)
井村 欣裕
PROFILE
大学時代より百数十回ヨーロッパに足を運び、数万点にものぼる美術品を買付け、美術界の表裏を現場で学んできた。美術品を見極めるだけではなく、その名品がたどってきた歴史背景をも汲み取る。現在でも週に約2万点の美術品を鑑定する。
井村美術館
江戸時代、ヨーロッパに散逸した古伊万里・柿右衛門・薩摩焼などの名品を収集し研究を重ね、日本に里帰りさせる道を拓く。近代今右衛門、柿右衛門研究の第一人者であり、さらにガレ、ドーム、オールドバカラ、オールドマイセン、幕末明治期の伊万里焼の逸品を扱う。「作家がもっとも情熱をかたむけた時の作品しか扱っていない。なかでも作家の心が在るものだけを置いています。いいものをわかってもらおうと思ったら、その作家の最も良い作品を観ていただくのが一番いい」という審美眼のもと蒐集品を公開。
TEL
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10時~18時半
定休日
水