誰よりもスタンダード。誰よりもプロフェッショナル。
北川一成が少しずつ語る、デザインのはなし
僕が生まれたのは加西市という兵庫県の田舎の街です。家業は、父と伯父が営む北川紙器印刷株式会社という印刷会社で、4人兄弟の長男として育ちました。僕は幼いころから絵を描くのが好きで、とにかくさまざまなものを、さまざまなところに描いては大人を困らせていました。
おそらく3歳のころ、母方のお祖父さんにもらった12巻セットの美術全集が、絵画や芸術を好きになるきっかけだったと思います。なかでも、レオナルド・ダ・ヴィンチに強烈なショックを受けたのを覚えています。5歳のころには、岡本太郎の「太陽の塔」に魅了されました。幼心に強く受けた印象はいまだに消えないものです。
小学生のときには、テストが配られても答案用紙に解答を書かず、すぐひっくり返して裏面に好きな絵をいっぱい描いていました。勉強は理解していたけど、「その瞬間、したいことをする」ことに没頭し、授業を聞くより絵を描く毎日。ほかには外へ出て花や虫を観察したり、グラウンドで遊んだりして、自分なりに楽しい子供時代を過ごしていました。
僕は父の仕事場も、よく見にいきました。僕にとって印刷工場はワクワクする場所のひとつで、印刷機は筆、紙はキャンバス、インクは絵の具。次はなにが刷り上がって出てくるのか、いつも楽しみでたまらなかった。今思うと、当時から少し変わった子どもだったのかもしれません。いつだったか、神社の鳥居にかかる虹があまりに綺麗だったので、「あの虹を獲りたい」と網を持って行ったことがあります。ちょうど境内に近所の人たちが立ち話をしていて、「あの子、あほちゃうか」と僕はクスクス笑われていました。すると近くにいた母親が大声で「一成、袋に入れないと虹獲れへんで」と、僕に大きなビニール袋を持ってきてくれました。網しか待ってこなかった僕は、思わず「お母ちゃん、ナイス!」と思いましたが、母に気を取られているあいだに、虹は消えてしましました。両親にはよく叱られて、あまり褒められなかったけれど、僕の良き理解者だったのだと思います。
中学生になって、答案用紙に解答を書いてから、裏面に好きな絵を描くようになりました。両親も安心し、成績も上がっていきました。高校はいわゆる進学校に入学したのですが、卒業したらすぐに就職するつもりだったので、勉強はあまりせず「デコトラ」ならぬ「デコチャリ」作りに熱中していました。
多くのアルバイトもして、お金も少したまったとき、パリにいる母方の叔父のことをふと思い出しました。叔父は親戚で唯一のエリートで、京都大学を卒業してソルボンヌ大学で教鞭を執る有名な数学者でした。きっと楽しい思いをさせてくれるだろうと目論み、高校3年生の夏、3カ月間叔父のところへ遊びに行くことにしました。
単純な理由で出かけたフランス旅行だったのですが、そこで、この道に進む大きな転換を迎えることになったのです。
グラフ株式会社 代表取締役/ヘッドデザイナー
北川一成
PROFILE
1965年兵庫県加西市生まれ。筑波大学卒。89年GRAPH(旧:北川紙器印刷株式会社)入社。“捨てられない印刷物”を目指す技術の追求と、経営者とデザイナー双方の視点に立った“経営資源としてのデザインの在り方”の提案により、地域の中小企業から海外の著名高級ブランドまで多くのクライアントから支持を得る。2001年、書籍『NEW BLOOD』(発行:六耀社)で建築・美術・デザイン・ファッションの今日を動かす20人の1人として紹介。同年国際グラフィック連盟の会員に選出。04年、フランス国立図書館に多数の作品が永久保存される。08年、「FRIEZE ART FAIR」に出品。11年秋、パリのポンピドゥーセンターで開催される現代日本のグラフィックデザイン展の作家15人の1人として選抜。NY ADCや、D&AD Awardsの審査員を務め、国内外で高い評価を受ける。TDC賞、JAGDA新人賞、JAGDA賞、ADC賞など受賞多数。