井村美術館の館長コラム
日本の超絶美が世界を驚かせ、ヨーロッパがジャポニズムに沸いたのが19世紀後半。約30年のブームを経て、20世紀初頭にはジャポニズムからアール・ヌーヴォーへと変容していきます。
ヨーロッパを中心に各国で開催された「万国博覧会」を機に、世界中で、物産・工芸品・機械などを売り買いするシステムが整っていきます。同時に王侯貴族などの雲の上の富裕層が少なくなり、商売を基盤とした資産家が増える世の中へと移り変わります。加えて電気が使えるようになって流通が急激に発達し、その波はアートシーンにも大きく影響を及ぼします。どんどんシステム化が進んでいくのです。
そんな時代の転換期に、先々を読んでいたのがノリタケです。ノリタケはマーケティングに熱心で、その先見の明は見事です。
日本は世界に向けて作る―
ノリタケチャイナの場合
世界の食器ブランド・ノリタケの源流は、幕末に御用商人だった森村市左衛門が、東京銀座に貿易商社森村組を開いたことに始まります。貿易によって外貨を獲得することが必須だといち早く考え、ニューヨークに輸入雑貨店モリムラブラザーズを開き、日本の骨董や雑貨で商っていました。アメリカの店で陶磁器の需要を実感し、1889年(明治22)のパリ万博を視察します。そこで美しい磁器に衝撃を受けた市左衛門は、日本で白色硬質磁器を製造することに踏み出すのです。試行錯誤の末に、1904年(明治37)、愛知県則武(現・名古屋市西区)に、近代的な大工場を構え、その10年後の1914(大正3)に、日本初のディナーセットを製造します。
1880年前後に日本が世界に輸出した物がヨーロッパを夢中にさせ始まったジャポニズムがアール・ヌーヴォーへと展開し、そのヨーロッパの魅力を吸収していったのがノリタケです。それまでの高級品、たとえば薩摩焼などを安く作ってイメージを潰すのではなく、独自の丁寧な物づくりを基盤とし、ヨーロッパ人が好む、ちょっと日本趣味が入ったものを造っています。
ヨーロッパに磁器の技術を学び、西欧人が好む色彩で、絵具や材料もヨーロッパに倣っています。ヨーロッパ仕様のディナーセットは、アメリカ、ヨーロッパで大人気を博し、世界に名を馳せる「ノリタケチャイナ」に成長するのです。
日本は世界に向けて作る―
バカラの場合
世界中に知られるブランドということでいえば、バカラ社も時代を見据えていました。1870年代までは王候貴族の調度品や、こだわり抜いた逸品を中心に手掛けていましたが、万博などで金賞を受賞することで名を広げると、経済の流れをうまく汲み取り、世界に目を向け王様御用窯から外貨獲得に転換します。
バカラはジャポニズムの時代には、市場を意識し、蓋ものや、酒器、茶器セットなど少しずつ日本風にアレンジしたものも手掛けています。
パリ万博に訪れた明治天皇もバカラ社へ注文し、そのグラスセットには菊の御紋がほどこされています。
そして、個人商店としては、1903年に大阪の春海商会がバカラに初めて発注し、販路を拓きます。当時、バカラ社のクリスタル鉢1点で家一軒分とも言われており、春海商店の注文により、茶道の世界でガラス器が浸透することになり。今日でも「ギヤマン」という名で夏の茶道や料亭で使われるきっかけをつくったのです。
時同じくして、ノリタケもバカラも世界貿易を視野に入れて動き出します。
歴史の流れと美術品は密接に絡んでいるのです。
世界のアンティークマーケットを覗いていると、その国の繁栄した時代が見えてくる。美術工芸品が歴史を感じさせてくれるのです。(井村談)。
井村 欣裕
PROFILE
大学時代より百数十回ヨーロッパに足を運び、数万点にものぼる美術品を買付け、美術界の表裏を現場で学んできた。美術品を見極めるだけではなく、その名品がたどってきた歴史背景をも汲み取る。現在でも週に約2万点の美術品を鑑定する。
井村美術館
江戸時代、ヨーロッパに散逸した古伊万里・柿右衛門・薩摩焼などの名品を収集し研究を重ね、日本に里帰りさせる道を拓く。近代今右衛門、柿右衛門研究の第一人者であり、さらにガレ、ドーム、オールドバカラ、オールドマイセン、幕末明治期の伊万里焼の逸品を扱う。「作家がもっとも情熱をかたむけた時の作品しか扱っていない。なかでも作家の心が在るものだけを置いています。いいものをわかってもらおうと思ったら、その作家の最も良い作品を観ていただくのが一番いい」という審美眼のもと蒐集品を公開。
TEL
075-722-3300
ACCESS
京都市左京区下鴨松原町29
最寄りバス停
糺ノ森
営業時間
10時~18時半
定休日
水