井村美術館の館長コラム
生活の中に、アートをいかに取り入れるか。
ヨーロッパは何百年も前からその命題に意識を払っていました。1793年に開館したパリのルーブル美術館は、それまでは上流社会だけに閉ざされていた美術作品を、一般市民に広く公開する場として、世界で最初にオープンした美術館と言われています。美しいものに触れ、それを知ることにより、豊かな人格を育んでいる、暮らしながら感性を育てる方法が確立されているのです。
パリの街が整然と美しいのは、美しいモノを見て育った子どもたちが大人になって、今度は作り手として活躍した、その賜物=結果なのです。
サルバドール・ダリも絶賛した
パリの地下鉄駅の意匠
パリの地下鉄は1900年につくられました。第5回パリ万国博覧会に合わせて開設されたのです。
地下鉄の意匠は、アール・ヌーヴォーの建築家として名を馳せていたエクトール・ギマールが手掛けました。ギマールが設計した地下鉄の入口は、当時、新素材であったガラスや鉄で建造されていながらも、けっして無機質ではなく、蔦の鋳鉄が絡みつき、蝶の羽のようなガラスの天蓋が覆いかぶさった、まさにアートそのもの。
当時は、世の中をアール・ヌーヴォーが席捲していました。ところが、第一次世界大戦後にモダンデザインが普及し、アール・ヌーヴォーは時代遅れなデザインとして衰微します。ギマール設計の地下鉄駅も、2駅を残してすべて取り壊されてしまいます。今なおギマールのオリジナルが存在しているのは、モンマルトルにある12号線のアベス駅と、2号線のポルト・ドフィーヌ駅のみです。
時代の変遷を経て、アール・ヌーヴォーが再評価されるようになると、パリのギマールが設計した地下鉄駅も見直され、多くの駅でギマール時代の意匠が復元されています。昆虫や花、動植物を象(かたど)った有機的な造形に、後年サルバドール・ダリも感嘆したといいます。
触れる・見る・聴く・匂う、感性を磨く
人がAIより勝っていること
パリの地下鉄駅は、公共施設であって、多くの人が利用します。そんな生活空間に、100年以上前の美しきベル・エポックのデザインが、街を彩る景色として馴染んでいる。凄いことです。
ギマールの手がけた地下鉄と同時代に作られた、アール・ヌーヴォーを色濃く映したバカラ社製のクッキージャーをご紹介します。
なんとも甘美なデザインです。1900年頃のもので、植物の意匠に、柄の部分など有機的な曲線を用いて、あえてむずかしい凝った作りになっています。植物の世界に直線はないといいます。曲線は、当時、芸術性・生命力を表現することを意味していました。
日常の食卓にこのクッキージャーのような美しいものが置かれていたら、そしてそれに触れて育ったなら、どれほど人の感性は育まれることでしょうか。
現代は便利な世の中になり、百円均一ショップでも遜色ない食器が手に入る時代です。しかし、「どうしてお父さんは、アノ器をたいせつにしているのだろう? 百均のモノと何が違うのだろう? 」と、そんなことを、子どもに考えさせる機会を与えることも、「本物を知る」ための重要なことです。「そんな高価なモノ、割れるからアブナイ! 」と片づけるのではなく、本物の美しさに触れて見て、匂いを嗅いで、聴き取って、五感を駆使して感性を磨かなければなりません、今こそ我々は。(井村談)
井村 欣裕
PROFILE
大学時代より百数十回ヨーロッパに足を運び、数万点にものぼる美術品を買付け、美術界の表裏を現場で学んできた。美術品を見極めるだけではなく、その名品がたどってきた歴史背景をも汲み取る。現在でも週に約2万点の美術品を鑑定する。
井村美術館
江戸時代、ヨーロッパに散逸した古伊万里・柿右衛門・薩摩焼などの名品を収集し研究を重ね、日本に里帰りさせる道を拓く。近代今右衛門、柿右衛門研究の第一人者であり、さらにガレ、ドーム、オールドバカラ、オールドマイセン、幕末明治期の伊万里焼の逸品を扱う。「作家がもっとも情熱をかたむけた時の作品しか扱っていない。なかでも作家の心が在るものだけを置いています。いいものをわかってもらおうと思ったら、その作家の最も良い作品を観ていただくのが一番いい」という審美眼のもと蒐集品を公開。
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