井村美術館の館長コラム
日本の磁器発祥の町―佐賀県有田に、江戸時代から続く赤絵町があります。鍋島藩が絵付をする「赤絵屋」を集めた町です。今もそこに今泉今右衛門の工房はあり、「色鍋島」の看板を掲げています。
遡ること秀吉が行った文禄・慶長の役のあと、李朝から連れて来られた陶工団が有田に鉱脈を発見し、良質の陶石が発掘されました。日本で初めて磁器が焼かれたのが1610年のこと。その後1640年代に、中国から赤絵の技術が伝わり、その当初から今泉今右衛門家は、赤絵付の仕事をしています。
本朝無類の絵付
一子相伝の技法
鍋島焼は完全なる分業制です。磁土精製、成形、下絵付、本焼き、上絵付など工程が分かれていて、一人の者が完成品を作れないように仕組んでいました。技術漏えいを防ぐシステムです。本焼きまでの工程は大川内の藩窯で制作され、上絵付は赤絵町で行われました。
有田内山の赤絵町に集められた赤絵屋は16軒のみ。鍋島藩が優秀な技術者を選りすぐり、藩の保護(監視)下に置きました。その中でもさらに技術のすぐれた今泉今右衛門家に、藩の御用赤絵師を命じ、城内で焼成されている藩窯の色絵付けを任せていました。(鍋島藩窯は、徳川幕府や大名への献上品・贈答品・城内用品の磁器を制作していて、市場にはまったく出さない名物揃い。藩主直々の命を受けた陶器方役は、優秀な陶工を選定。色絵付は今右衛門家が担っていました)
ですから、赤絵窯のまわりには鍋島藩の紋章入りの幔幕(まんまく)を張り巡らし、侵入者を見張るため高張り提灯を掲げて、強固な警固の下で赤絵窯を焚き、絵師は斎戒沐浴(さいかいもくよく)して色絵付をしていたほどです。
ここまで厳重に囲い込みをして、赤絵の技法が他の藩へ洩れるのを防ぎました。さらに藩は、家督相続法をつくって一子相伝の秘法として保護したのです。
明治維新の廃藩激変
十代今右衛門の努力と挑戦
明治維新とともに鍋島藩窯も無くなり、窯業が自由化されます。当然、藩の下で磁器を焼いていた職人達はそれまでの藩の保護を失います。経済的にも技術的にも苦境に陥りながら、十代今右衛門は自力で窯焼をして、生地から赤絵付まで、一貫した制作をはじめます。
現在の今右衛門家の向かいに工房を建てて、連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)を作ったのは明治初頭のことです。好奇心旺盛な気性と不屈の精神で十代が、試行錯誤の末に道を拓いていきます。轆轤、染付の線描き、濃(だ)み、柞灰(いすばい)による釉薬、松木の薪による窯焚き、そして一子相伝として受け継がれてきた赤絵の技術(赤・黄・緑の上絵の調合)と、色鍋島の復興に心血を注ぐのです。
永遠のライバル
柿右衛門と今右衛門
明治になると、目まぐるしい技術の発展や、個人作家などが出始め、各自がモノを売って経営しないといけない時代になります。売れるものを作らなければならない。それまで赤絵のみを担っていた今右衛門家は、窯を存続させ生き残るために様々な作品を研究し、みごとに完成度の高い作品を作り上げるのです。鍋島焼では精緻で上手物(じょうてもの)の食器が大半でしたが、売れるモノ=流行りの絵柄を取り入れ、その作風は、鍋島様式、そして江戸中期にヨーロッパで人気を博した古伊万里様式、柿右衛門様式と様々。例えば、十一代今右衛門が手掛けた赤玉鯉仙人菓子器(下)は、元禄時代の古伊万里最盛期に作られた作品を復刻。当時の作品に引けを取らない銘品として現代に蘇らせました。
長い歴史を経て柿右衛門と今右衛門(鍋島)の関係は「永遠のライバル」と言えます。今右衛門は柿右衛門の真似をし、その逆も然り。ずっと江戸時代から続く関係であり、互いに影響し合いながら切磋琢磨し、現代まで脈々と伝統を守り伝え続けてきているのです。(井村談)
井村 欣裕
PROFILE
大学時代より百数十回ヨーロッパに足を運び、数万点にものぼる美術品を買付け、美術界の表裏を現場で学んできた。美術品を見極めるだけではなく、その名品がたどってきた歴史背景をも汲み取る。現在でも週に約2万点の美術品を鑑定する。
井村美術館
江戸時代、ヨーロッパに散逸した古伊万里・柿右衛門・薩摩焼などの名品を収集し研究を重ね、日本に里帰りさせる道を拓く。近代今右衛門、柿右衛門研究の第一人者であり、さらにガレ、ドーム、オールドバカラ、オールドマイセン、幕末明治期の伊万里焼の逸品を扱う。「作家がもっとも情熱をかたむけた時の作品しか扱っていない。なかでも作家の心が在るものだけを置いています。いいものをわかってもらおうと思ったら、その作家の最も良い作品を観ていただくのが一番いい」という審美眼のもと蒐集品を公開。
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