身内でなければもっと褒められるのに
大正~昭和期に活躍し、民藝運動の中心的役割を果たした陶工・河井寛次郎。河井が自ら設計し、当時の貴重な登り窯が残る自宅兼工房は、没後まもなく記念館となり、一般に公開されている。河井の孫で、当館の学芸員を務める鷺珠江(さぎたまえ)さんは、家族の思い出が詰まった館で働くことを「大好きな祖父について専門的に研究できる学芸員です。ありがたい環境だと、いつも感謝しています」と話す。家族で運営する記念館は、2023年2月に、開館50年の節目を迎えた。

真ん中に祖父がいる生家
記念館の学芸員に
当館は河井の一人娘を母にもつ鷺さんの生家でもある。祖父母や両親、姉妹に加え、住み込みの見習い弟子や行儀見習いのお嬢さんなど、総勢10数名がともに暮らす大所帯だった。
「来客が多い家で、大人はいつも忙しそうでした。とはいえ放任主義ではなく、やりたいことも何でもさせてくれました」。
自由な環境で育った鷺さんは、同志社大学文学部に進学。史学科で美術を学び、卒論のテーマには「河井寛次郎」を選んだ。「義理の兄の勧めで在学中に学芸員の資格を取り、卒業後は自然な流れで記念館に勤めることになりました」。
鷺さんは学芸員であると同時に、作家の遺族でもある。鷺さん以外の職員もみんな親族だ。河井寛次郎その人を知る家族が運営を行う──。この特異性が、この記念館の大きな魅力となっている。
「もし寛次郎がまったくの他人だったら、もっと遠慮なく、手放しで褒められるのですが、身内だとそうもいかなくて」と、鷺さんは遠慮がちに前置きしてから、祖父への思いを話してくれた。
「うちの家族はみんな、祖父のことが大好きなんです。彼は功名心や出世欲とは無縁の人。家族の進むべき道を示してくれる、羅針盤のような存在でした」。

河井家に受け継がれる
千客万来(せんきゃくばんらい)の家風
河井家は昔から「千客万来の家」だった。民藝運動の仲間はもちろん、河井と面識があるなしにかかわらず、訪ねてきた人は等しく歓迎したという。
「祖母は毎日、掃除のために早起きしていました。立派なお皿に見合う料理を作り、家族と一緒に囲炉裏を囲んで飲み食いをしてもらう。たとえ祖父が留守のときでも、同じようにもてなしました」。
かくして「先客万来」の精神は、河井を敬愛してやまない家族によって受け継がれ、記念館の「現在」へとつながっている。
「この空間で自由に、いい時間を過ごしてほしい」。作品を「鑑賞する」とか、偉大な陶芸家の「足跡を追う」とか、そんなふうに構える必要はないと鷺さんは言う。客人を喜んで迎えるのは我が家の伝統なのだから、と。家主は不在だけれど、「ちょっと、河井寛次郎さんに会いにきました」と、次々やってくる客を迎え入れる。「河井寛次郎記念館」は、そうやって50年の時を刻んできたのだ。

家族の暮らした空間を当時のまま公開する当記念館ならでは。
河井寛次郎記念館
TEL
075-561-3585
ACCESS
京都市東山区五条坂鐘鋳町569
最寄りバス停
馬町
営業時間
10時~17時(入館受付16時半まで)
定休日
月(祝日の場合は開館、翌日休)